091107

多少久しぶりに日記。

結局、国際関係については、対象としては興味深いがその理論的枠組みには全く与せないというところ。Wendtian Constructivism についても、Scientific Realism を掲げたところで、何故国家が理論的な構築物として取り扱えるのかに関して十分な説明はできない。

国家は重力ではない。重力の内部がブラックボックスなのは仕方がないが、国家についてはそうでない。なぜなら、幾度となく警告されているように、社会科学は自然科学ではないからだ。自然科学はその性質からして自然そのものを理解することができない。それはむしろ、モデル構築によってブラックボックス内部のものにアクセスするためにインターフェースを形成する試みである。だからこそAというボタンがないとき、それを作ることには意味がある。

しかし社会に関するいかなる概念も、空虚なシニフィアンである。自然科学においては、シニフィアンは(いかにしてかはわからないが)シニフィエと接続することができる。けれども社会についてはそうでない。社会を維持している象徴の体系そのものに取り込まれてしまっては、それを外部から観測することはできない。だからこそ人類学理論には意味がある。それは、単純に「他の」社会を観測するところから始まったため、(アクシデンタルに、ではあるが)社会の象徴大系からは自らを隔離するかたちで思索を展開することができた。だからこそ、それは真の意味で物質主義的であるということができる。

大河原遁「王様の仕立屋24」、大場つぐみ小畑健バクマン。5」購入。どちらも安定して面白い。